この記事は、財団法人産業振興財団の「かわさき元気企業〜新ものづくりベンチャーズの時代」に取り上げられた内容です。
ー世界に例の無い省力化・自動化機器を開発するー
株式会社 メカトロジャパン
蹴飛ばしを自動化
潟<Jトロジャパンとは、名前のとおり、メカニカル技術とエレクトロニクス技術を融合させた省力化、自動化機器を設計・開発する開発型企業である。「世の中に無い機械をつくる」をモットーに、一九八四年に潟сm技研から研究開発型企業として分離し、矢野定雄氏が創業した会社である。
潟<Jトロジャパンと潟сm技研との関係は、潟<Jトロジャパンで設計・開発し、潟сm技研が製造を担っているという役割分担した関係であり、潟сm技研の創業を抜きに語れない。矢野氏は、技術系の学校を卒業し、京浜急行電鉄の通信関連技術者として勤務していた電鉄マンであった。実父の死をきっかけに、叔父の経営する工場の手伝いをすることとなった。東京・蒲田にある叔父のプレス工場で目にしたのは、“蹴飛ばし”という足で踏むプレス機械、据付、取り出しの手作業をしている光景であった。
当時京浜急行電鉄では浦賀駅の無人化システムを始めており、鉄道の信号系は全て自動化されていた。わかり易く説明すると踏み切りは電車が近づくと自動で遮断機が降り、警報がなる仕組みになっている。
そこで、プレスの仕事を覚えるかたわら、工程の自動化について、ひとつ一つ取り組んでみた。作業手順、工程を丹念に調べ、全ての作業を人手を介さず自動的にこなす装置を製作していった。タイムレコーダと連動して朝8時半になると機械が自動的に運転を開始し、お昼になると停止、そして、休憩が終わるとまた自動的運転を再開するFA(ファクトリーオートメーション)システムが完成した。その甲斐あって、叔父の会社は利益を上げたという。
こうして叔父の会社に9年ほど勤めたが、いつまでも叔父の厄介になっていられないと、独立を決意し、東京目黒区で創業した。それは、一九七五年の事である。
仕事の当てがあって会社を興したわけでもなく、子供の誕生を機に一念発起し、独立したという。そこに、知人から紹介された経営者から「私の頭の中にあることを形にして欲しい」という開発依頼が舞い込んだ。失業保険を貰いながらの設計、組立てであったが、叔父の工場での自動化が非常に役に立ち、モータガバナの自動溶接装置の第一号機が六ヶ月後に完成した。納入先が川崎市(幸区小倉)に四階建ての新工場を建設しその工場にこの装置をどんどん納入して欲しいとのことで、社員を2人雇い、会社もその工場の近くに移転し、増産をしていった。この装置は一台二百万円で納入できたのだが、後でわかった事であるが最初の一台は大手メーカーから同じ機能の装置を二千万円で購入していてうまく稼動していなかったのだった。こうしてその会社はモータガバナでは一時市場を独占したのであった。
続いて、同じように他社の取締役から「私の考えている事を形にして欲しい」という話が来た。そこで、福島工場の自動化・省力化コンサルティングをする事となった。スイッチの製造ラインであった。
こうして自動化・省力化をコンサルティングし、必要に応じて装置やラインを開発するという現在のビジネススタイルが出来上がった。
専用開発メーカー「メカトロジャパン」の設立
一九八四年、接着剤メーカーから、瞬間接着剤充填装置の開発依頼があった。そこで、装置を開発したところ、その装置を使って生産もして欲しいとの要望を受け、生産を開始する事となった。この頃、従業員一〇名に達し、開発・設計部隊と製造部隊を分離することが効率的であると考え、潟сm技研から開発・設計部門を独立させ、潟<Jトロジャパンを設立した。
一九九三年には、若い優れた人材を集めるため、元住吉営業所を開設した。営業所という名前ではあるが、同社には営業マンはゼロである。全員が開発・設計技術者で、営業に出ることはない。
これまで開発した機械・システムは業界・業種を問わず電気、電子、自動車など幅広い分野で活躍している。開発した自動機の一例を挙げると、リレー自動組立ライン、スイッチ自動ライン、電子銃部品の自動溶接組立機、電気接点部品自動溶接機、また、プレス、カシメ、フォーミング、切断等の複合自動化装置、液晶バックライト製造の自動化装置、自動車関連部品の自動組立装置、各種の自動検査装置等々、優に四〇〇種類に上る。いずれも、開発した装置やラインは、取引先の次の商品開発に絡むだけに、全てが機密扱いにし、プロジェクトを進行させ、取引先も一業種一社に絞って取引していたほど慎重に対応してきた。
ゼロからの開発でも、短期間で開発することができる。その理由は設立当初からパソコン一人一台体制をとって、図面などのCADデータを共有して、社員それぞれがお互いに開発した機器の図面やノウハウを利用しあえる環境があるからである。誰でもそのデータを活かして、次の製品開発に取り入れるため、安定性、品質に優れる装置を短期間に開発・製造できるという。元は危機管理からの発想で、万が一工場が火事になっても図面が消失しないように、設計図、図面の類を電子化して、フロッピーで銀行の貸金庫に保管していたことから始まったことであるが、情報を共有することによって、最適のシステムを短時間に設計・開発することを可能としている。
また、大胆な取組みとしては、既成概念にとらわれず自由な発想を活かすべく、若手社員を開発のプロジェクトリーダーに抜擢することもざらにある。新卒の社員がいきなり高年俸を取るという実力主義・成果主義を徹底している。これを可能としているのは、CADデータだけでなく、会社の財務状況をはじめ、受注状況、プロジェクトの進行状況を日々、社員全員が、ネットワークを通じて閲覧できることである。出た利益は社員に還元しているため、決算賞与や全額会社負担の一週間海外旅行という事もある。社員が納得ずくの仕組みである。
自動化・省力化機械づくりの駆け込み寺
現在、引き合い企業は一〇〇〇社を数え、恐らく、他社でできなかったものが持ち込まれているのだろう。「こんな材料で、こんな加工ができる装置ができないか」と誰も挑戦したことのないテーマや要望が国内外から多数寄せられているという。頼まれる案件は、非常にリスクが高いものが多く、正直、できるのかと躊躇することもあるという。しかし、「浪花節の世界というか、どうしてもと言われれば引き受けてしまうんですよ。」(矢野社長)まさに、自動化・省力化開発の駆け込み寺である。それを可能としているのは、二〇代から三〇代の若い技術者たちで、電子、電気、メカに通ずるプロ集団である。彼らが中心になって、「世の中に無い機械」を創造しているのだ。難題が持ち込まれ、ものによっては、開発期間が半年、一年かかってしまうケースもあり、事業としては赤字ということもあるが、矢野社長は、意に介していない。社員教育の一環と考え、人材の育成こそが明日の競争力の源泉であり、ここでの経験は、次の開発に必ず生きると確信しているためである。
また、開発主体型会社の宿命で、売上げが入ってくるのは、開発した装置を納入した後であり、極端なケースでは、半年間売上げがほとんどなく、残りの半年間で一年分の売上げを稼ぐという具合に波があることが悩みではある。
そこで、こうした波を解消するために、現在、液晶の分野に絞って自社製品の開発を検討している。多数寄せられるニーズを集約し、汎用で用いられる装置の開発である。売れる手ごたえは掴んでいるようだ。
日本でのものづくりを死守
最近、心配しているのは、日本のものづくりのあり方である。部品加工や組立ての町工場が姿を消している。それに引き換え、同社の自動化装置を海外へ、とりわけ中国に持って行きたい要望があるという。「極端な話、ボタン一つ押せば“もの”ができる自動化省力化装置であり、コストは変わらないはずである、大手企業は何でも中国で生産ということしか考えていない。日本の国益を全く考えないということで、結局、自分の首を絞めることになる。」
(矢野社長)と、大手企業の役員を諭すこともあるという。現在は、「メンテナンスは国内しか対応しない。」と海外生産に“抵抗”しているが、国内の設備投資が冷え込み、中国でしか商売にならない時代になりつつあるという。
「設備投資が活発な中国では次々と最新鋭の工作機械が導入され、日本でのノウハウが移植され、安いだけでなく精密な金型などにも製造が及んでいる。早晩日本の技術を追い抜くことは目に見えており、韓国では我々を上回る技術での装置もある。さらに深刻な事態になる前に、ものづくりを優遇、海外の投資を呼び込む特区の実現など、早く手立てをしないと、日本の製造業はどうなってしまうのだろう。」と危惧している。
日本の製造業を取り巻く環境は日増しに厳しく、「より高度、より精密、より速く」を実現しなければ日本の製造業の生き残りは無い。究極の自動化・省力化を推進する、日本の製造業の未来を担う潟<Jトロジャパンへの期待がますます高まっている。

[2004/4/16]
弊社子会社のOMJPが沖縄特別自由貿易地域(具志川市州崎)に入居が決定し、稲嶺恵一知事と面談した記事が琉球新報社に取り上げられました。
Web版琉球新報社該当記事
|